Light Cruiser Nagara Wreck Exploration Project
軽巡洋艦「長良」は、第二次世界大戦中、アメリカ軍潜水艦の雷撃により熊本県天草諸島・牛深沖で沈没した、日本海軍の軍艦です。乗組員583名中348名が戦死し、戦争の悲惨さを今に伝える存在となっています。
例年、撃沈された8月7日には、「乗組員の御霊に弔意を表すとともに、一人でも多くの方に戦争の悲惨さと平和の尊さを伝えていく」として慰霊祭が実施されており、2025年8月9日には戦後80年として洋上での慰霊祭も執り行われました。
そのような折、私が長生炭鉱の潜水調査で取材を受けていた際、記者の西中誠一郎氏から「私は『長良』の戦死者の遺族にあたる」というお話をうかがいました。これが、私がこの艦について本格的に調べる契機となりました。
その後、慰霊祭を主催する天草市社会福祉協議会牛深支所の方々、遺族の方々と連絡を取り合い、水中調査に向けて進めていくこととなりました。
「長良」の沈没地点は既に特定されていますが、一般的なレクリエーショナルダイビングで行ける水深を大きく超え、高度なテクニカルダイビングの領域にある水深です。
DIVE Explorers(主宰:伊左治佳孝)では、未踏の水中洞窟や大深度域の調査などを継続して行っています。
その探検や調査で培った技術と経験を本件にも活用し、現在の長良を記録に残すとともに、当ページで「長良」沈船の潜水調査に関わる状況を報告していきます。
「長良」は長良型軽巡洋艦の一隻で、1922年(大正11年)に竣工しました。太平洋戦争期には第一線で運用された実戦艦です。
同型艦は「長良」「五十鈴」「名取」「由良」「鬼怒」「阿武隈」の6隻で、球磨型(第1グループ)、川内型(第3グループ)と並び、「5500トン型軽巡洋艦」と総称されています。
また、「長良」の艦内には岐阜県岐阜市の伊奈波神社(いなばじんじゃ)が分祀され、艦内神社として祀られていました。
1944年7月、「長良」は沖縄から鹿児島への民間人疎開輸送任務に従事していました。
同年8月5日に那覇を出港し、翌6日に鹿児島に入港。疎開者を上陸させた翌日の1944年8月7日、アメリカ軍潜水艦「クローカー」(USS Croaker)による雷撃を受けました。
その結果、「長良」は熊本県天草市牛深の沖合約10キロの海上で沈没。
乗員583名のうち348名が戦死したとされ、235名(記録によっては237名)が救助され生還しました。
救助された乗員は、牛深の漁師たちによって救出されたと伝えられています。
当時、「長良」の撃沈は軍機として厳重に秘匿され、戦時中はもちろん戦後もしばらくの間、慰霊活動はほとんど行われませんでした。
しかし、1898年生まれの佐々木ツルさん(享年88)は、個人の信念から長年慰霊を続けました。
1970年には私財を投じて、沈没地点を望む高台の在郷軍人墓地に「長良慰霊碑」を建立。毎朝手を合わせ続けたといいます。
その想いは天草市社会福祉協議会牛深支所へと受け継がれ、現在では毎年8月7日に慰霊祭が恒例行事として実施されています。
2025年8月9日には、戦後80年の節目として、海上での慰霊祭および慰霊式典も執り行われました。
この洋上慰霊祭では、海上自衛隊の掃海艇「とよしま」へ遺族の方々や関係者が乗船し、その後の慰霊式典には総勢約150名が参列しました。
2025年8月11日 KKT NEWS NNNより
そのような慰霊が行われている中で、私の潜水調査に取材にお越しいただいていた、ジャーナリストの西中誠一郎(にしなか せいいちろう)氏から、「私は『長良』の戦死者の遺族にあたる」というお話をうかがいました。
西中氏は、長良艦長・中原義一郎氏のお孫さんにあたる方です。これが、私とこの艦との関わりの始まりとなりました。
当初、私は長良や慰霊祭の存在を知ってはいましたが、具体的な現況までは把握していませんでした。
最初にお話を聞いた後に調査や関係者への聞き取りを重ねるうち、「長良」を語り継ごうとする関係者の方々の想いを感じ、私たちが実際に潜水して、現在の長良の姿を写真にとどめたり、遺品を確認したりすることは、歴史の継承の一助になるのではないかと考えるようになりました。
私はこれまで数多くの沈船調査を行ってきましたが、そのたびに感じるのは、沈船とは“歴史の証人”であるということです。
したがって、その潜水調査に臨む際には、単なる水中作業にとどまらず、船の背景に触れ、船の背景・歴史・人々の想いを理解することが不可欠だと考えています。
まさにその歴史を紡いできた天草市社会福祉協議会牛深支所の方や、遺族の方々と連絡を取り、2025年12月に一度天草市牛深までご訪問させていただくこととなりました。
社会福祉協議会には軍艦長良記念館が併設されており、想いを知るとともに、我々が撮影した写真などが今後長良を語り継ぐうえでの一助となればという想いもあります。
社会福祉協議会の方からは、「語り継ぐための材料が増えることは有難いことだ」というお話もありましたが、いずれにせよこれまで歴史を紡いできた方々の一助になるような試みをしたいと考えており、何を実施するのか、逆に何を実施しないのかということについてもお話をしようと考えています。
※ 社協の所在する天草市役所牛深支所
※ 福本氏に長良のご説明をいただく
※ 軍艦長良記念館。長良のこれまでの記録が展示されている。
2025年12月22日、調査の契機となった西中誠一郎氏とともに天草市社会福祉協議会牛深支所を訪問しました。
訪問では、慰霊と継承を担ってこられた関係者からお話をうかがい、水中の現況調査と撮影は長年の念願であるという言葉も頂戴しました。戦後80年を迎え、慰霊の場を「語り継ぐための材料」として記録を残す意義を、改めて確認する機会となりました。
一方で、潜水に際して行ってほしくないことについてもお話をうかがいました。遺骨の収容は行わないことが過去に遺族会の総意として決まっていること、遺品については一旦は撮影にとどめてほしいことなど、ご要望を承りました。
訪問する前から、軍艦長良には非常に多くの方の想いが集っていると感じていましたが、その中でも故佐々木ツルさんから直接慰霊の引継ぎを依頼されたという、天草市社会福祉協議会福本壮一氏の長良への思いは並々ならぬものだと感じられ、私もさらに心を込めて取り組まなければならないと気持ちを新たにしました。
福本氏からは魚群探知機で長良を捉えた写真も見せていただき、そこには「水深 約80メートル」と記されていました。
社協に併設される「軍艦長良記念館」には、これまでの長良の記録や写真などが数多く展示されています。
来場者コメント用のノートが設置されていましたが、そちらを拝見したところ全国各地から来場されている様子で、これまで継続して長良の伝承に取り組んでこられた成果であると感じました。
その後引き続き、毎年慰霊祭にご協力されておられる「ダイビングショップ・トミカワ」をご紹介頂きました。
オーナーの冨川さんはご夫婦でショップを運営しておられ、慰霊祭では遺族の方々が乗られる船などを出しておられます。
我々が長良の調査を実施するにあたって諸々のご協力をご依頼させていただいたところ、ご快諾いただきました。
潜水場所となる海に精通した現地のダイビングサービスにご協力いただけることは、これ以上心強いことはありません。
ダイビングショップ・トミカワ
オーナーの冨川氏
長良の慰霊碑と墓のある慰霊の丘
佐々木ツルさんが慰霊碑を建立された場所は、今では「慰霊の丘」と名付けられています。
過去のメディア報道から、慰霊碑は沈没地点を望む高台に建てられていると聞き及んでいましたが、そちらにもご案内いただきました。
慰霊碑を管理されておられる社会福祉協議会の方におうかがいすると、慰霊碑からまっすぐ見下ろした場所が、まさに長良の沈没地点であるということでした。
なお、道路から慰霊碑までは120段以上の階段を上った距離があり、そちらの清掃なども社会福祉協議会の方が実施されておられるということでした。
日常的な手入れが継続されていることは、慰霊が年に一度の“行事”というだけではなく“日常の営み”として守られていると感じました。
関連の報道(2025年12月の現地訪問について)
※ 長良の中原義一郎艦長の孫にあたる、中原洪二郎氏
2026年4月23日、長良の潜水調査に向けた準備の一環として、奈良大学を訪問し、当時の長良艦長・中原義一郎氏の孫である中原洪二郎氏にお会いしました。
中原氏は、2025年に牛深で行われた戦後80年の「軍艦長良洋上慰霊祭・慰霊式典」において、遺族代表として謝辞を述べられた方です。長良の沈没から80年を経てもなお、牛深の地で慰霊が続けられてきたことへの感謝、そしてその記憶を次の世代へつないでいくことの大切さを語られていました。
今回の訪問は、潜水調査の実施に向けた単なる説明や報告ではありません。
私たちがこれから向かおうとしている海底には、ひとつの沈船があるだけではなく、戦没者の記憶、遺族の想い、そして牛深の人々が長年守り続けてきた慰霊の歴史があります。そのことを改めて確認するための訪問でもありました。
これまで私は沈船調査において、「沈船とは歴史の証人である」と述べてきました。
しかし、今回の訪問を通じて、その言葉の意味をさらに強く感じることとなりました。沈船を記録することは、単に船体の形状や沈没状況を確認することではありません。海底に残された現在の姿を記録し、それを地上にいる人々の記憶と結び直す作業でもあります。
長良は水深約80メートルの外洋に沈んでいると記録されており、潜水調査としては極めて難度の高い対象です。技術的な準備、安全管理、撮影計画、現地との連携など、越えなければならない課題は少なくありません。
それでも、この調査によって現在の長良の姿を写真や映像として残すことができれば、それは慰霊の継続に資するだけでなく、長良を知らない世代に戦争の記憶を伝えるための新たな資料となり得ます。
中原氏への訪問を経て、私はこの潜水調査を、単なる大深度沈船調査としてではなく、遺族、地域、そして未来の世代へ記録を手渡すための調査として進めていく必要があると、改めて認識しました。
※ ご持参いただいた、艦長・中原義一郎氏の写真
※ 今回ご同席いただいた方々と共に
2026年7月6日、熊本県天草市の複合施設「ここらす」にて、軽巡洋艦「長良」潜水調査の実施について記者会見を行いました。会場とWeb参加をあわせて、約30名の記者の方にご参加いただきました。
会見には、長良艦長のご遺族である西中誠一郎氏、長年にわたり慰霊活動に尽力されてこられた天草市社会福祉協議会 元常務理事の福本壮一氏、水中ドローン(ROV)で調査をサポートいただくベルポート宇土(熊本県宇土市)の村井一道氏にご同席いただきました。
遺族の方々、慰霊に長年取り組んでこられた方々、そして地元の方々。皆さんに応援・サポートしていただきながら進められることを大変うれしく、そして心強く思います。
会見の内容は、地元・熊本のほか、乗組員の多くのふるさとである北陸をはじめ、各地のメディアで報道されました。
本番に先立つ7月14日から15日、静岡県・伊豆の大瀬崎で、今回一緒に潜水をする森裕和氏・荻原庸介氏とともに、現場を想定したシミュレーションを行いました。
大瀬崎は我々のホームグラウンドでもあります。勝手を知った場所を選ぶことで、訓練そのもの以外の負荷を減らすことができました。
また、テクニカルダイビングについて現地のダイビングサービスの方々に深く理解していただいており、大変ありがたい場所でもあります。
大瀬崎の付近には、我々がメンバーとなっているガスの充填施設があり、トライミックスや酸素といった一般のダイビング施設では充填できないガスをタンクに充填することができます。
そういう意味でも大瀬崎は我々のホームであり、今回はトレーニング後にタンクや水中スクーターなどを自動車に積み込み、森氏が静岡から熊本まで搬送してくれました。
※ リブリーザーやダブルタンクを使ってのエントリーの準備
※ シミュレーショントレーニングの風景
再現したのは、水中スクーターを使用しながらのボートでのエントリーからエキジットまでの一連の流れ、そして撮影というタスクです。
エントリーやエキジット、そしてタスクの遂行は、テクニカルダイビングにおいて、説明されながらも軽視されがちな領域です。
しかし、今回のような現場では、「どうすれば潜れる状態を作れるか」という設計から、自分たちで組み立てる必要があります。
テクニカルダイビングのためにすべてが整えられた環境で潜ることと、探検の現場が求めることとの間には、非常に大きな差があります。このシミュレーションを行っていなければ、当日、エントリーすることさえできなかっただろうと私は考えています。
15日には、投錨したロープにあらかじめ器材をセットしておき、水中で装着する手順の訓練を行いました。
この手順ひとつをとっても、どのような順番で行うのか、誰がどこに器材を設置するのか、どれだけの時間がかかるのか、さまざまな検討が必要になります。ライセンスを取得するための講習で教えられる手順ではなく、現場の経験があるからこそ、検討が必要であると認識できるものです。
さらに、これらの訓練はすべて、撮影機材を携行した状態で行いました。
これも、我々は撮影という任務を果たすために潜るのであって、ただ潜ること自体に、探検としての意味はないと考えているためです。
探検は、このようなトレーニングの必要性を理解し、ともに真摯に向き合えるチームメンバーに支えられている。そのことを強く意識しています。
7月19日に全員が現地へ入り、この日と翌20日の二日間で、器材の組み立て、潜水計画とERP(Emergency Response Plan:緊急対応プラン)の確認、船長やスタッフの方々への共有、船への積み込みを行いました。
また、ROV(水中ドローン)による我々のサポートと撮影を担っていただくベルポート宇土の村井一道氏、そのチームが乗船する美喜丸の松本幸喜船長とも、事前の打ち合わせを行いました。ここで、我々はダイビングショップ・トミカワのボートに乗るものの、美喜丸が投錨したロープに我々のタンクを設置し、そのロープを伝って潜降することを決めました。
減圧の計画は二つ用意しました。ひとつは活動時の平均水深を80メートルと想定し、滞在を25分または30分とする計画。もうひとつは平均90メートルを想定し、滞在を20分または25分とする計画です。
船体には高さがあるため、前者では最大90メートル、後者では最大100メートルに達する想定になります。どちらを基本とするかは決めず、当日の状況で選ぶこととしました。
そのうえで、活動時の平均水深が100メートルを超える見込みであれば潜水は行わない、という撤退の基準をあらかじめ定めました。
体制は、7月21日の潜水初日に関しては森氏が水面と浅い水深を受け持ち、私と荻原氏が船体へ向かう編成とし、翌日は私が水面と浅い水深を担う予定としました。
※ ダイビングショップ・トミカワさんにて器材をくみ上げる。
※ 事前のブリーフィングの光景。
※ 魚群探知機は、水深97.3メートルを示す
7月21日、我々はダイビングショップ・トミカワのボート、ROVのチームは美喜丸に乗り込んで牛深港を出港し、45分ほどで現地に到着しました。外洋とは思えないほど海は穏やかで、潮流もうねりもほとんどありません。
長く慰霊に関わってこられた福本壮一氏は「ここまで海況がいいのは珍しい」と話されており、まるで我々の潜水を歓迎してもらっているかのような、恵まれた条件でした。
一方で、魚群探知機で確認した水底の水深は100メートル。事前に情報として得ていた水深80メートルとは大きく異なり、緊張が走りました。
ただ、こうした状況になり得ることを事前に想定し、平均水深が90メートルとなる場合の計画(船体の底面が100メートルであれば、甲板上は90メートル程度となるため)を立てていました。そのため大きな混乱はなく、「二つの計画のうち、深い方を採る」という判断だけで進めることができました。
入水の前に、改めて荻原氏と二点を確認しました。ひとつは、活動時の平均水深が90メートルになるようコントロールすること。もうひとつは、降りた先に長良が見えなかった場合にどうするか、です。なお、「活動時の平均水深が90メートルにコントロールする」というのは、最大水深を90メートルに制限するという意味ではありません。
今回の潜水では、潜水開始位置となるボートから、ロープに繋いだ錨を落とします。しかしこのような大深度では、落とし始めた錨がまっすぐ真下に入るわけではありません。流れの影響を受け、多少なりとも位置がずれることが一般的です。つまり、降りた先に長良が見えない可能性は、十分にありました。
そこで、捜索の手順を次のように決めました。投錨したロープにラインを結び、捜索に移ること。捜索の範囲は、時間は計画の枠内、空間は60メートルのスプールのラインが届く範囲までとすること。あわせて船長には、船体に対して錨がどちらの側にずれている可能性が高いかを確認しました。
※ 西中氏が船上からお酒を捧げる。
※ 美喜丸のロープから潜降を開始する。
美喜丸が錨を落とし、ロープが入りました。この手順も、適切な位置に錨を入れるために3度ほど繰り返しました。
外洋での潜水は潮止まりの時間を狙いたいのですが、このような手順を行う時間も考慮してタイムスケジュールを組まないと、「現場には到着したけれど、潜れない」ということにもなりかねません。
船を固定した後、美喜丸に乗船されていた遺族の西中氏とともに、沈没地点の海へお酒を捧げました。
準備を終え、ここから先は大瀬崎で訓練した手順のとおりに進みます。
美喜丸が投錨したロープに、我々のタンクを設置していきます。大深度の潜水においては、ボート上で全ての器材を背負って入るのが難しい場合も多くあります。
ベイルアウト用の複数のタンク、水中スクーター、撮影機材……。それらを身につけたまま水面で待機し、船の動揺の中で過ごすこと自体が負荷であり、入水時のトラブルの原因にもなります。
そこで、あらかじめロープの所定の位置に器材をセットしておき、我々は最小限の装備でエントリーして、水中でそれらを装着します。誰がどの器材をどこに設置するのか、どの順で身につけるのか、そしてそれにどれだけの時間がかかるのか。大瀬崎で確かめておいたのは、この一連の流れです。
森氏は水面と浅い水深に留まり、我々の入水を見届けます。私と荻原氏は、水中スクーターを手に、ロープに沿って降りはじめました。
潜降を開始してまもなく、カメラのホットシューに装着していたアクションカメラが脱落しました。
深度100メートル圏の潜水では、落としたものを追うという選択肢がありません。ロープを離れれば自分の位置を見失い、そこから戻る手立てがなくなります。ましてこの日は、ボトムでの滞在が20分から25分という計画です。数分を捜索に使えば、その分だけ長良のそばにいられる時間が削られます。追わない判断はその場で決まりました。
このため、撮影機材として3種を投入した撮影は、2種で続けることになりました。冗長性を持たせて臨んだ意味が、開始直後に現れたとも言えるでしょう。
深い水の中に吸い込まれるような潜降を8分。ロープの下端である水深97.9メートルに到達しました。
しかし、そこに長良の姿はありませんでした。
※ 軍艦「長良」の発見
視界の届く範囲には、ただ砂の広がる海底があるだけです。事前に想定し、入水前に荻原氏と取り決めていたとおりの状況が、そのまま現実になりました。ここから先は捜索です。荻原氏がロープにラインを結び、船長から聞いていた「錨がずれている可能性の高い側」へ向かって、方向を定めました。
我々にはボトムでの持ち時間しかありません。捜索に費やした時間は、そのまま長良のそばで使える時間から差し引かれていきます。それでも、決めておいた範囲の中でなら迷わず動ける——事前に取り決めておくとは、そういうことです。
潜降開始から13分、視界の先に構造物が現れました。
深い海の底、水面付近では15メートルほどあった透明度は目測約7メートル。その環境の中では、構造物が何であるかは、近づくまで分かりません。距離が詰まるにつれ、輪郭が形になっていきます。
船でした。
82年、ここにあり続けた船です。
荻原氏が、引いてきたラインを船体に結びつけました。これで、帰りの道筋が確保されたことになります。
船体が全長にわたってどのような状態にあるのかをこの潜水で確認できたわけではありませんが、目視できた範囲では、船体は横倒しになることもなく、水面に浮かんでいたときと同じ姿勢で海底に在りました。
ラインを結びつけた場所から左に進むと、船体の船首と思われる場所に出ました。そこには、砲身など、軍艦特有の構造物が残されており、「写真を待っていただいている人に届けられる」という思いでカメラを回しました。
※ 長良の甲板の上。砲身が映っている。
※ 今では、魚礁となって生命を育んでいる。
一方で、撮影に夢中になることはできません。
船体には釣り糸が大量に絡みつき、一部には漁網もかかっていました。これらは、大深度の潜水において大きなリスクとなるものです。絡まれば身動きが取れず、それを解くのに時間を使えば、計画した浮上ができなくなるため、注意を払わなければなりません。
船体の周囲には多くの魚が集まっていました。長良は、いまでは魚礁となっていることが観察されました。地元では、「軍艦曽根」と呼ばれ、釣りのポイントともなっているようです。
多くの命が失われた場所で、多くの生命が育まれている。その光景を前に、言葉にしがたい感情がありました。
なお、ご遺骨およびご遺品は確認していません。
潜降開始から19分、艦上を離れ、ロープへ戻ることを決めました。
この日採用した計画では、浮上開始まで最大25分です。ただしこの25分は、船体にいられる時間ではありません。船体からロープまで戻る時間も、この中に含まれます。捜索して長良にたどり着いた以上、帰りにも同じだけの距離があります。
ギリギリまでいて、復路でひとつでもトラブルが起きれば、対処に時間を取られ、計画した浮上開始の時刻を超えてしまいます。大深度の潜水において、その超過はそのまま減圧時間の増加、ひいてはリスクの増大につながります。
復路の時間と、その復路で何かが起きたときのための余裕。その両方を残せる時点が、19分でした。
結び付けたラインを外し、巻き上げながらロープに戻ったのが潜降開始から23分。ロープに沿って浮上を開始しました。
ここから水面までの減圧に、139分を要しています。
この減圧時間の大半は浅い層で過ごすことになります。この日の水温は、表層で27度から28度、水底で17度。減圧上の効率が良くなる条件であり、船上で準備する時間の暑さをきちんとケアできれば、ありがたい季節でした。
浅い水深まで上がってくると、森氏が待っていました。トラブルが発生していないことを伝え、不要なタンクや器材を受け渡し、水面へ引き上げてもらいます。
ここでも、大瀬崎で確かめておいた手順のとおりです。長い減圧の最後の時間を、余計な負荷を抱えずに過ごすことができました。
※ 減圧停止中の写真。途中まで同行した、ROVの姿も見える。
※ 船長の冨川光氏に結果を報告する
そして水面、船上へ。潜降を開始してから、162分が経っていました。
総潜水時間は162分。そのうち、我々が長良のそばにいられたのは、6分でした。なお、ダイビングコンピューターに記録された最大水深は97.9メートルです。
船に上がると、皆が待っていました。長良を見つけたこと、撮影ができたことを伝えると、ボートの上に安堵と歓声が広がりました。
我々にとってこの潜水は、潜れたかどうかで終わるものではありません。この日、船の上には報道の方々が乗り、別の船にはROVのチームや遺族の西中氏がいて、港には慰霊を担ってこられた方々が待っておられました。そして、その先には、82年間この船を思い続けてきたご遺族がおられます。
海底の長良を、写真として持ち帰ること。それが我々の任務でした。撮れたと報告できたことが、この日の何よりの成果です。
当初、7月22日には二本目の潜水を予定していました。この日の目的は、前日とは異なります。21日が船体の一点に取りつき、船とわかる写真、ご遺族にお渡しできる写真を確実に撮ることであったのに対し、22日は船体の全体像を映像で捉えることを狙っていました。
しかし、水底の水深は事前情報の80メートルではなく、100メートルでした。97.9メートルまで潜り、139分の減圧を行った後、同じ深度へ連日で潜ることは避けるべきだと判断し、21日の潜水を終えた時点で、翌日の潜水は行わないことを決めました。
※ 今回のダイビングログ
※ 水中ドローンによる映像から(ベルポート宇土 提供)
潜水は行わず、ベルポート宇土の村井一道氏、ライトスタジオの石松義朗氏によって、水中ドローン(ROV)での撮影を行っていただきました。ROVは2回投入し、いずれも船首の側とみられる範囲を記録しています。
水中ドローンでは、有人の潜水では見通すことのできなかった、より広い範囲を捉えることができました。この日に人が潜って行うはずだった「全体像を捉える」という目的の一部を、無人機が担う形になったと言えます。
これで、遺族の方や記録として残すための綺麗な写真と、長良の広い範囲の把握という、2点の目的を果たすことができました。
ただし、船体の全長にわたる状態は、依然として確認できておらず、もし関係者の方々が求められるようであれば、今後の課題と言えるでしょう。
同じ日、故・佐々木ツルさんの墓前を訪ねました。
戦後、長良の撃沈が長く語られることのなかった時代に、ただ一人で慰霊を続け、私財を投じて慰霊碑を建てられた方です。その墓前に、撮影した写真をお供えし、線香をあげました。
同行いただいたのは、ツルさんから直接慰霊の引き継ぎを託された福本壮一氏、天草市社会福祉協議会牛深支所長の若田泰治氏、そして西中誠一郎氏、水中ドローンでの撮影を行っていただいたベルポート宇土の村井一道氏およびライトスタジオの石松義朗氏、そして潜水に携わったメンバーです。
そのあと、慰霊の丘にも足を運びました。慰霊碑の前で、調査を実施したことを報告し、手を合わせました。
海底に眠る長良の姿を、82年間この地で待ち続けてきた場所へ届ける。記録し、それを必要とされる方へ返す。今回の調査において地上で行うべき、その最初の一歩でした。
※ 佐々木ツルさんの墓前へ
関連の報道(長良の潜水調査について)
7月21日の潜水と、22日の水中ドローンによる撮影をもって、今回の潜水は完了しました。7月中に実施できなかった場合に備えて確保していた予備日(9月3日〜4日)の潜水は行いません。
ここから先は、一旦は持ち帰った記録を届けていく段階になります。
取材にお越しいただいた各社には、潜水の当日から数多く報じていただきました。今後も報道の予定があり、この調査を通じて長良のこと、そして何より長良に関わってきた方々を知っていただく機会が広がっていくことを、ありがたく思っています。
我々の記録は、ご遺族のもとへ届きはじめています。長く待たれていた方々に受け取っていただけたことは、我々にとって何よりの手応えでした。
牛深では、地元のみつばちラジオさんへの出演を予定しています。まずは、この調査を支えてくださった地元の方々へ、直接ご報告したいと考えています。
長良の乗組員には、北陸をはじめ全国各地の出身者がおられます。牛深に限らず、そうした地域でもご報告の機会を持てればと考えています。
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